Wednesday, August 10

大英博物館に潜る(その3)

その幽霊の隣にかけられたのは、まったく違ったタッチの戯画風の作品で、世界の聖人たちを描いたものだ。手に扇と鈴のようなものを持ち、十字架にかけられたキリストと、そのまわりで楽器を演奏し歌い踊る、釈迦、孔子、老子、そして伊邪那岐命(イザナギノミコト)かと思われる日本の神話風の格好をした人物がいる。自由で素早い筆の動きで描かれたこの作品は、暁斎独特のユーモアにあふれている。

近代になって力も意味も失いつつあった宗教を揶揄しているのだろうということ以外、これらの集って楽しむ聖人たちが何を意味するのか、はっきりとしたことは私には分からない。キリストと釈迦と孔子が一緒に描かれたものが、暁斎の大黒天の表象をテーマにした論文の中で扱われていたのを思い出した。(Donatella Failla, "The God of Wealth in Western Garb – Kawanabe Kyosai’s Portrait of Edoardo Chiossone as Daikokuten," Monumenta Nipponica, Vol. 61, No. 2, Summer 2006, pp. 193-218.)

高橋義雄という人物によって1886, 7年に書かれた『拝金宗』二編の表紙を暁斎が手がけているのだが、第二編の表紙に、大黒を教祖とする“拝金宗”に、洋服姿の多くの人々に混じって釈迦と孔子までもがなびいていく様子が描かれていた。キリストは磔にされているので動けずにいるが、視線は人々の動きを追っているようにも見える。そこに描かれたのは、お金というものが最大の“宗教”となった近代の姿であった。


河鍋暁斎《五聖奏楽図》明治4~22年/1871~1889
Israel Goldman Collection, London(写真:立命館大学アート・リサーチセンター)2017年更新

西洋人キリストの顔が誇張されすぎもせず、ごく自然な描写で描かれているのを見ると、コンダーというイギリス人の弟子を持ち、西洋が比較的身近だった明治時代の暁斎の状況を思う。むしろインド人釈迦のほうがよっぽどエキゾチックな顔をしている。これらの聖人たちの人間くささからは、宗教の世界までもが俗に染まっていく様子が見て取れる。

決して下手ではないコンダーの「木莬(みみずく)」だが、暁斎が描いたものと比べたときに際立つのは、やはり暁斎の筆の確かさ、完成度の高さである。暁斎のミミズクが、勢いのいい筆の動きで描かれている中にも、木にしっかりと止まっているのが感じられるのに対し、コンダーのミミズクは止まり木にしっかり乗っかっているという説得力に欠ける。ミミズクの気質にも違いが現われてくるもので、微妙に前に乗り出すように構えた暁斎のミミズクには緊張感が漂い機敏な印象だが、コンダーのミミズクは体勢も気持ちもちょっと後ろに引けている。やはり暁斎先生にはかなわない。

クラーク氏が選んで見せてくれたものはどれも、暁斎の画業の幅広さを感じさせるものだった。狩野派の伝統を受け継ぎ、自分なりに発展させ、戯画において俗世界にあそび、怪奇世界にも浅からず足を踏み入れる。一人、膨大な時間と労力をつぎ込んで仕上げる作品もあれば、最後にクラーク氏が見せてくれた席画のように、他の絵師たちとのコラボレーションや、書画会で勢いよく仕上げる作品もある。昔からの技法を大事にしながらそれを自分の芯として絵を描き続け、しかし垣根をつくることなく、明治という新しい時代、西洋という文化を含めた様々なものと向かい合い、自分とコミュニケートさせる。実に魅力的な人物だ。そして生み出される、力ある作品の数々。暁斎の世界は広い。

再びクラーク氏が開けてくれたドアを通り、ペコペコ頭を下げてお礼を言いつつも半ばぼんやりとして外に出る。ここはどこだっけ。ノーマン・フォスターのグレイト・コート(Great Court)の白い床に足を踏み出すと、ホールに満ちた光に足元から全身を照らし出されたようだった。輝かしい大英のステージに光は降り注ぐ。しかし私は見てしまったのだ。展示室裏の小部屋の中には、まだ小さな扉が開いていたのを。そこには膨大な数の木箱が、いくつもの世界への入り口をそのうちに秘めて、ずらりと並んでいたのを。一瞬、想像が追いつかなくなり、思わず身震いした。

(2007年9月)

大英博物館に潜る(その2)

次々と出てくる貴重品にうならされっぱなしの見学隊に囲まれながら、クラーク氏はひとまず応挙の屏風をしまい、そして掛け物をいくつか取り出し始めた。壁にかけられる極彩色の掛け物に、再び見学隊の感嘆の声がもれる。そこには、北斎の「流水に鴨図」に「鎮西八郎為朝図」、そして暁斎先生の「龍を退治する素戔鳴尊(すさのおのみこと)」が並んでいた。

クラーク氏は1993-4年に大英博物館で「Demon of Painting」と題した河鍋暁斎の展覧会を開いている。大英博物館は、明治に日本に滞在していたイギリス人医師ウィリアム・アンダーソンのコレクションも含め、暁斎の作品をずいぶん所有していると聞く。この絹地に彩色された肉筆画「龍を退治する素戔鳴尊」は、暁斎の画集にも度々登場する代表的な作品のひとつだ。もともと、明治時代に建築家として日本に住み、暁斎の弟子でもあったジョサイア・コンダーのコレクションにあったものだ。

神話という題材や様式化された自然物の表現にも関わらず、どこか自然主義的・・・と言っては誤解を招くかもしれないが、不思議と違和感のないまとまり、調和が画面全体にある。色は地味におさえられて墨の濃淡表現や線描写と自然に混ざり合い、スサノオを中心に描かれているのは間違いないのだが、画面全体でひとつの風景を描き出しているような感じもする。それは描き込まれたディテールの説得力と全体の調和のバランスからくる印象なのだと思うが、そこには単にある説話をテーマとした絵という以外の、暁斎の表現における関心が見えている気がする。

ここでは「主題」と「物語を語るための演出装置としての背景」という、背景が主題に従属する関係というよりも、シーン全体のリアリティと構図のダイナミズムが暁斎の関心になっているのではないだろうか。むしろスサノオと龍というテーマのほうが全体の中の一部に過ぎず、この画面全体のドラマチックな動きに理由を与えるために置かれているようにすら思えてくる。

吹き降ろす強風、しなる木の幹、荒れ狂う激流、岩の斜面、スサノオの前のめりの姿勢に、彼に向かって波を叩きつける龍という、縦長の画面いっぱいに幾つもの対角線をえがくジグザグの動きがある。その画面全体の躍動感に加え、波のしぶき、風に煽られる木の枝々といったディテールも、動きと緊張感にあふれている。つまりここでは画面全体が一体となって動いているのだ。龍が水中から覗くかたちで水と同化してスサノオに対峙していることから見ても、荒れ狂う風と水という自然に取り囲まれて一人剣を振りかざすスサノオは、この自然界全体を相手に、無謀とも思える孤独な戦いを挑んでいるのである。


河鍋暁斎《龍を退治する素戔鳴尊》明治20年/1887(100.1×29.7cm)

余白による空間表現でもなく、極彩色の花鳥図のようにディテールで背景をびっしりと埋め尽くす。しかし花鳥画のように画面を飾るだけに止まらず、そのディテールひとつひとつが息をし、画面全体で物語を語り、動かしている。狩野派の伝統や技術を受け継ぎながら、形式化した風景や構図にとどまることなく、絶えず新しい表現に挑戦し続けた暁斎を見ることができる作品であると思う。

次に並んだのは、暁斎の作品二点と、暁英すなわちコンダーが師匠暁斎の手本に従って描いた「木莬(みみずく)」だった。その中で他を圧倒して異様な存在感を放っていたのが、暁斎の「幽霊図」である。暁斎の幽霊を生で見ることができるなんて!その瞬間、その日最大の脈拍数を記録したことは間違いない。興奮、そして背筋に寒気がはしるくらいの絵の凄みによってである。

ゆらりと立ち上がる女の幽霊は片手に男の生首をつかみ、もう片方の手で長く乱れた自分の髪を引っ張るようにしている。大きく口を開け、焦点の定まらない目をし、はだけた着物から骸骨のようにやせ細った体をのぞかせている。振り返って体を弓なりに反らせているが、この後どっちに動くのか分からないようなこの姿勢が、見るものの不安と緊張感を募らせる。かすかな白いもやのような空気に包まれて冷たい光を放ちながら、狂気の世界を彷徨う幽霊の姿にはゾッとさせられる。

絵の左下には、金で梵字が一字書き込まれている。この絵とともに保存されているお札のようなものにも梵字が書かれ、どうやらこの幽霊が絵の額から出てこないようにという、封じ込めのまじないのようだ。その本気さが怖い。コンダーコレクションの中には他にも暁斎の幽霊図があり、絵の中に描かれた表装から幽霊が出てきてしまっているように描かれたものもある。絵がそれだけの真実味を帯びるほど、力のこもった作品である。

河鍋暁斎《幽霊図》明治4~22年/1871~1889(106.3×37.7cm)

(その3に続く。)

大英博物館に潜る(その1)

堂々たるコロン(柱)の間を通ってメインエントランスをくぐると、ガラス天井と白壁のホールに溢れる明るい光に包みこまれる。思わず「わぁ…」と声が出る。大英博物館が創立された18世紀の”Enlightenment”(啓蒙主義:原語は「光で照らされること」「蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」)の精神を体言したかのような、ノーマン・フォスターの見事な空間演出だ。そのホールの反対側、入り口の真向かい位置する通路を通って奥の建物の突き当たりまで進むと、その最上階にJapan Galleryがある。ドアのガラスからは、気品あふれる百済観音の横顔が印象的にのぞいている。その観音の視線の先、長い長方形状に三つの展示室が連なるこのギャラリーの一番奥には、またもうひとつドアがある。ニコル・ルマニエール先生率いる見学隊のためにその扉を開いてくれたのは、このギャラリーのチーフ・キュレーターであるティム・クラーク氏だった。

ギャラリーの裏にあるこの小部屋の奥では、六双の屏風が金箔の光に包まれて私たちを待っていた。その左手には更にもうひとつのドアが開いている。巻かれた掛け物を収めた棚が連なる、大英の日本美術コレクション保管室への入り口である。そこからクラーク氏が取り出してくる細長い木箱一つ一つの中には、絵画という更なる世界の展開があった。クラーク氏が巻かれた掛け物をするすると広げていくと、鮮やかな色彩と流れる墨線が織り成す画面が姿を現す。丹念にぬり重ねられた色に、筆あと一本一本の重なりに、江戸時代の絵師の息づかいを生々しく感じ、鳥肌が立った。大英博物館を奥へ奥へと進むほどに広がる世界。まったく頭がくらくらする。

私の目はまず、この大きな金屏風にすいよせられた。墨のラインがうねる水の流れに、しなやかな曲線フォームが印象的な虎が四頭、金色の光の中でその見事な毛皮を豊かに輝かせている。一頭はまだほんの小さな子どもで、川を渡る親虎の口にくわえられている。川の両岸にはそれぞれ少し大きい子どもが一頭ずつ、片方はすでに川を渡り終え、濡れた毛皮をなめて乾かしている最中で、もう一方は首を前に伸ばして、向こう岸に向かう親虎の背中を目で追いながら自分の番を待っている。川の流れは激しく、大きく盛り上がってうねりながら、親虎のノドから腹の毛をぬらす。

見たとたん「応挙の虎だ」と思った。特に右下の順番待ちの虎の愛嬌ある表情、ぬいぐるみのような子虎の姿に、これまで見た応挙の虎たちのイメージが重なった。近寄ってみると、確かに右下に応挙のサインがある。私のような素人は円山四条派のことなどをあまり知らないから、大雑把なところですぐに「応挙だ」と言うわけだが、この作品が本当に応挙の手によるものなのかどうか、議論もあるそうである。真ん中の親虎を応挙が仕上げ、子虎たちを弟子たちが描いた可能性もあるという。クラーク氏はそう説明しながら、ピンクにぬられた鼻の描き方の違いなどを指し示してみせた。

この子どもの川渡しをする虎という図像は、中国の故事から取られているのだという。虎の家族が川を渡らなければならなくなったが、激流のため親虎は一度に一頭しか運べない。しかし、三頭の子どもたちのうち一頭は気が荒く、他の子どもと残しておくと危険である。さて、どうするか、という場面らしい。ニコル先生は、「この子虎たち一頭一頭が応挙の弟子たちの誰かを表しているのではないか」という想像に、きっとこの危険ないたずらっ子が芦雪じゃない?と言って楽しげな笑い声をあげた。クラーク氏は、じゃぁこちらは呉春かな、と言ってフフッと笑った。



円山応挙・円山四条派《虎の子渡し》c.1781-1782 (153.5 x 352.8cm) 大英博物館

このような日本美術の作品の実物をガラスに遮られることなく間近にしたのは、生まれて初めてのことだった。虎の毛を描き出す筆跡の一本一本が存在感をもって重なり合い、画に厚みのようなものを与えているのがはっきりと見える。虎の頭部を覆う毛は、思わず指をうずめてその柔らかさを確かめたくなってしまうほどに、丹念に描き込まれている。その一本一本の物質的な重み、筆の動きという一つ一つの行為の積み重なり。物(object)として物質的に実現された“表現”の、その質感と質量はまさに「本物」だった。表現されたもの(考え idea)の問題としてではなく、物体としての絵画というもの、「絵画そのもの」の存在、そこにこもった力にまず圧倒された。

印刷として均一な一平面になってしまったものや、ガラスというフィルターによって一枚の膜をかけられた表面からはおよそ得られなかった生のテクスチャー(質感)との対面は、新鮮で生々しい感動だった。

複製芸術と言われる版画でも、人の手の作り出した「もの」であることには変わりなく、生物(なまもの)との対面は、それは生唾ものなのである。クラーク氏は上質の北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」を持っていた。大英のものだという他の二点とともに、三点の「波裏富士」が机の上に並べられる。その中でもクラーク氏の一点は、保存、摺りの状態、色の鮮やかさ、どれをとっても最良質だった。厚くしっかりとした紙に染み込んで深い色を放つ藍色のヴァリエーションに、繊細かつ確かな墨線が自在に描き出す世界。紙の質感に、豊かな色彩と潤いある墨線が重なって、あたたかい味わいがこの「もの」に満ちる。浮世絵に使われる「空摺り」や「きめ出し」という、プレッシングによって紙の表面に凸凹をつけて模様や形を描く技法の立体的効果や、雲母の粉末を色に混ぜ込んでキラキラ効果を出す「雲母摺り(きらずり)」などの例もあげられるが、この「もの」としての喜びは、作品の大切な要素であるはずだ。


葛飾為一(北斎)「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」(1831)大英博物館

また、浮世絵版画には「木目潰し」といって、版木の木目が摺りにそのまま現われているものもある。これがあると「はぁー」とため息が出るほどに嬉しくなってしまうのが常だが、その心はなんだろう。木目模様が空に現われていれば、それが空の表情として独特の効果をあげるからだし、摺りの過程そのものを作品の味にしていくその遊び心とセンスがにくいのだ。このような技法から、浮世絵は“工芸的”という(西洋的絵画観からの)説明をよくあてられるが、それはつまり、「もの」としての絵とそのまわりの世界の密接なつながりを意味しているにすぎない。筆跡から何から、絵の外にある作者の存在を画面からできるだけ排除し、画中にひとつの独立した世界を確立しようとする絵画のあり方とはまるで違う、「もの」としての絵の、別の楽しみ方がここにはある。

(その2に続く。)