メイキング・オブ・これぞ暁斎!(3)展覧会の骨組み作り
Making of "This is Kyōsai!" (3) The Exhibition's Structure and Chapters
Curator Molly |
「これぞ暁斎!」展は、序章と「隠れ章」(春画)を含めて、8章で構成されている。
ゴールドマン・コレクションをいかに紹介するかを考えたとき、1)コレクションの特徴を最もよく捉えて見せるということと、2)このコレクションが見せることのできる「暁斎」とは何なのかという、2つのフォーカスの仕方があった。その2つが重なるところに、「包括的」というポイントが見いだせる。ゴールドマン・コレクションは、暁斎の多彩な作品世界を見渡すことができる幅広さをもっている。それを分かりやすく、面白く見せようとして作ったのが、今回の展覧会の構成である。
序 章 出会い――ゴールドマン・コレクションの始まり
The Origins of the Goldman Collection
第1章 万国飛――世界を飛び回った鴉たち
Crows “Flying over Many Lands”
第2章 躍動するいのち――動物たちの世界
Animal Life
第3章 幕末明治 ――転換期のざわめきとにぎわい
The Bustling Era
第X章 笑う――人間と性
Laughing with Kyōsai: Humanity and Sex
第4章 戯れる――福と笑いをもたらす守り神
Lucky Gods and Protectors of the Home
第5章 百鬼繚乱――異界への誘い
Demons and Spooks
第6章 祈る――仏と神仙、先人への尊崇
Dieties and the Sacred
<序章 出会い――ゴールドマン・コレクションの始まり>
展覧会への扉を開く最初の章では、暁斎の魅力をイジーの視点から紹介しようと考えた。イジーのお気に入りの作品から始めることで、どのようなコレクションであるかという感触を掴むと同時に、コレクションを作ったその人を身近に感じることができるようにしたかった。
「暁斎って楽しいでしょう?」―― イジー(イスラエル・ゴールドマン氏の愛称)が目を輝かせながら見せてくれるのは、表情豊かに生き生きと描かれた動物たちの絵である。暁斎が描く動物たちは、多くは愛らしく、時にいたずらで、ふとすると怖さも持ちあわせ、たいてい個性的で実に人間くさい。見ているとこちらも思わず口元がゆるんでしまう。
その様子を嬉しそうに見守っていたイジーが、待ちきれないように次の絵へと導く。牡丹の花を模した花笠をかぶった、あるいは鉢巻をしめた猫たちが、拍子木に合わせて木遣りを上げながら曳き物を引いている。「自分はどの猫だと思う?僕はね…これ!」高張り提灯に見立てて逆さに掲げた三味線を持って意気揚々と先頭を行く猫を指して、満面の笑みを浮かべる。
一緒に笑いながら、暁斎を楽しむ。ロンドン、ハムステッドの自宅で過ごす、至福のひとときである。…(図録より)この展覧会を訪れる人々が、あたかもイジーの自宅を訪れてイジーと一緒にこれらの絵を見ているような気になるように、そう意図して当章の解説も書いた。その部分が会場のパネルからはそっくりカットされてしまっていたのは残念としか言いようがない…。
この部屋が展覧会の始まりにあることで、展覧会全体に個性を与え、また、コレクションそのもの、コレクターその人に親しみを覚えることができると考えた。
<第1章 万国飛――世界を飛び回った鴉たち>
この章では、ゴールドマン・コレクションの鴉を一堂に集める。これは監修者の及川茂氏の夢であった。
展覧会の玄関である「序章」をくぐり、最初に通される部屋として鴉の殿堂を置いたのは、ここで鑑賞者のフォーカスを切り換えるためでもあった。暁斎のシンボルである鴉の出迎えによって、再び人々の意識は暁斎自身に戻ってくる。
展覧会の玄関である「序章」をくぐり、最初に通される部屋として鴉の殿堂を置いたのは、ここで鑑賞者のフォーカスを切り換えるためでもあった。暁斎のシンボルである鴉の出迎えによって、再び人々の意識は暁斎自身に戻ってくる。
「万国飛」は、暁斎の鴉が世界中に飛んでいくことを表す印章であるが、併せて19世紀後半の海外における暁斎の人気、時代背景として欧米における日本美術への関心などにも視野が広がる。英国への一時帰国に際してコンダーが暁斎に百枚の鴉の絵を注文したこと、ゴンクールが「暁斎の鴉」を比喩に使ったことなどがよい例である。
そして、「鴉」を通して表現された、暁斎自身の画業に対する姿勢も大事なポイントになるだろう。
そして、「鴉」を通して表現された、暁斎自身の画業に対する姿勢も大事なポイントになるだろう。
<第2章 躍動するいのち――動物たちの世界>
イジーが暁斎の作品において最も愛するのが動物の絵である。ここから続くテーマ別の章立ての中で、点数も一番多い。鴉に集中した部屋から多様さに視点を移し、様々に描かれた動物たちの姿を楽しむことができる。暁斎の筆の巧みさ、その筆から生み出された絵にあふれる生命感が最大の魅力である。
暁斎の動物たちは、人間のように着物を着ていてもそれぞれ動物らしさが失われておらず、その表情には野性味が感じられ、単純にかわいいだけではない。イジーは「愛らしくありながらも、感傷的ではない」として高く評価する。暁斎は対象に限りなく近づきながらも、感情的なレベルで自己を対象と完全に同一化してしまうことはない。その絶妙なバランスと距離感によって、動物に託して描く世界を広げてみせたと言えるだろう。
暁斎の動物たちは、人間のように着物を着ていてもそれぞれ動物らしさが失われておらず、その表情には野性味が感じられ、単純にかわいいだけではない。イジーは「愛らしくありながらも、感傷的ではない」として高く評価する。暁斎は対象に限りなく近づきながらも、感情的なレベルで自己を対象と完全に同一化してしまうことはない。その絶妙なバランスと距離感によって、動物に託して描く世界を広げてみせたと言えるだろう。
<第3章 幕末明治 ――転換期のざわめきとにぎわい>
この章には、暁斎が生きた時代を映し出す絵を選んだ。文明開化の世を生きる蛙たちと、明治のナマズ役人、芸者や遊女を表した猫たちが、動物を取り上げた前章とこの章をつないでいる。他に、日本に入ってきた西洋文化、外国人、書画会、歌舞伎などを描いた作品が含まれる。また、暁斎絵日記は、暁斎の生きた時代を彼の生活に即して生き生きと写し取った、たぐいまれな記録である。
暁斎の作品の多くには、暁斎の「現代」、彼が生きた時代と社会が強く反映されている。コンテンポラリーな意味合いを読み解くことで、描かれた世界が具体的に立ち上がってくると、そこにはまた人間の普遍性が見えてくる。
暁斎の作品の多くには、暁斎の「現代」、彼が生きた時代と社会が強く反映されている。コンテンポラリーな意味合いを読み解くことで、描かれた世界が具体的に立ち上がってくると、そこにはまた人間の普遍性が見えてくる。
<第X章 笑う――人間と性>
第1、2章で動物たちを描いた作品、第3章で動物の表象を通して人間を描いた作品、また、人間そのものを描いた作品へと視点を移動させてきた。それに続き、第4章として人間臭さの極みである性を、とことん滑稽に、ときに微笑ましく描いた春画を取り上げる、という流れを私は考えていたのである。
しかし、春画の問題は未だにすっきりとはいかず、取り上げない開催館もあるかもしれないということで、章番号を与えられずに別枠が設けられた。図録で春画を最後に置いたのは、全体の構成の意図とはかけ離れた処置である。Bunkamuraでは仕切りが設けられていはものの、展示の流れの途中に組み込まれていたことはよかった。
滑稽さの中に人間の本質をつく暁斎の春画は、暁斎の画業を語るにおいて欠かすことのできない一分野である。ゴールドマン・コレクションほど、暁斎の春画作品が充実しているコレクションはない。
ひとりの絵師の活動の中に、大きな全体の中の一部として春画を位置づけながら、正当な評価を与えた展覧会というのは、日本国内ではほとんどない。ゴールドマン・コレクションはそれが実現できる、数少ないコレクションである。そのことがもっと積極的に利用されてもよかったと感じる。
しかし、春画の問題は未だにすっきりとはいかず、取り上げない開催館もあるかもしれないということで、章番号を与えられずに別枠が設けられた。図録で春画を最後に置いたのは、全体の構成の意図とはかけ離れた処置である。Bunkamuraでは仕切りが設けられていはものの、展示の流れの途中に組み込まれていたことはよかった。
滑稽さの中に人間の本質をつく暁斎の春画は、暁斎の画業を語るにおいて欠かすことのできない一分野である。ゴールドマン・コレクションほど、暁斎の春画作品が充実しているコレクションはない。
ひとりの絵師の活動の中に、大きな全体の中の一部として春画を位置づけながら、正当な評価を与えた展覧会というのは、日本国内ではほとんどない。ゴールドマン・コレクションはそれが実現できる、数少ないコレクションである。そのことがもっと積極的に利用されてもよかったと感じる。
<第4章 戯れる――福と笑いをもたらす守り神>
この章では、いわゆる「吉祥画」を中心に、七福神、鍾馗、大津絵といった、人々の日常の中で親しまれていた顔ぶれを取り上げる。前章で取り上げた春画も新年の縁起物として制作され、吉祥画のひとつと言うことができるだろう。
暁斎が動物にパーソナリティを与え、ときには人間臭さを加えながら生き生きと描いたように、これらの伝統的なキャラクターたちも、暁斎の絵の中で新たな個性を与えられ、息をし始める。あふれる想像力とユーモア、自由自在な筆力によって、使い古された吉祥画のイメージの枠を簡単に飛び越えてしまう暁斎の才能をよく伝える分野である。
<第5章 百鬼繚乱――異界への誘い>
幽霊や妖怪など存在しないと言われ始めた明治時代においても、暁斎は幽霊や妖怪を描き続けた。暁斎にとっては、絵を描くということの意味そのものにも関わるテーマであったと言えるかもしれない。
「雷さまは太鼓を背負い、鬼は虎の皮のふんどしをしめているというのと同じように、幽霊の姿も想像から出たものであるので、何を真とし、何を虚とすべきかは分からない。それをいかにも恐ろし気に、きっとこんなだろうと思わせるように描くのが、妙手上手と言うものであろう」(『暁斎画談』)とあるように、幽霊妖怪画も絵師としての暁斎の腕の見せどころであった。
<第6章 祈る――仏と神仙、先人への尊崇>
最後の章には、力強い達磨像を含む、神仏を描いた絵を集合させる。第4章と5章は、ともに人間世界ではない異界を描いた絵を扱うが、その2つは対極の世界である。妖怪たちが走り回る部屋で、楽しく気持ちを踊り回らせた後に、神仏を描いた、気持ちを一点に集中させる絵の前で、深呼吸をして終了に向かう――展覧会の締めとして、ふさわしいのではないかと考えた。
精神的な題材を扱った作品は、近年イジーがより関心を寄せるようになった分野である。典型的な暁斎のイメージとは違う、しかし実際の暁斎の仕事の中では重要な一部であった宗教的作品、内省的作品で締めくるることで、この展覧会が提示する暁斎像をより立体的なものにすることができたと思う。
この展覧会で実現しなかった章に、「ゴールドマン・コレクションの名品 Masterpieces from the Goldman Collection」がある。各テーマから代表作を選び、並べて展示することで豪華な共演を楽しむ部屋となるはずであった。テーマ別の章立ての中では他の同じ画題の作品と混ざってしまい、作品の本来の力が薄れてしまう作品もあるだろう。そのような作品に、ここで「スター作品」としての場所を与えることができると考えた。
精神的な題材を扱った作品は、近年イジーがより関心を寄せるようになった分野である。典型的な暁斎のイメージとは違う、しかし実際の暁斎の仕事の中では重要な一部であった宗教的作品、内省的作品で締めくるることで、この展覧会が提示する暁斎像をより立体的なものにすることができたと思う。
この展覧会で実現しなかった章に、「ゴールドマン・コレクションの名品 Masterpieces from the Goldman Collection」がある。各テーマから代表作を選び、並べて展示することで豪華な共演を楽しむ部屋となるはずであった。テーマ別の章立ての中では他の同じ画題の作品と混ざってしまい、作品の本来の力が薄れてしまう作品もあるだろう。そのような作品に、ここで「スター作品」としての場所を与えることができると考えた。
ここで選ばれるはずだった肉筆作品の他に、「プロのディーラーの目で選んだ浮世絵ベスト・セレクション」として、暁斎版画の傑作を並べた部屋も設けたかった。ここでも画題と関係なく、最高の状態の版画を共演させる。状態のよい摺りの版画が揃っていることは、ゴールドマン・コレクションの大きな特徴であり、注目すべき点である。
しかし、名品は各章の見どころとしてそれぞれに取り込むことになり、また、版画作品も同様にテーマごとに分けられた。版画に関しては、展示数を大幅に減らさねばならなかったこと、今回の展覧会ではこれまでに世に出たことのない作品(となると、主に肉筆)の公開を優先させたこともあり、残念ながらこの案は叶わなかった。
展覧会をまとめるには、諦めなければならないこと、方法を変えねばならないことも沢山出てくる。しかし、採用されなかったアイディアは逆に言うならば「新たな可能性」なのであり、次のプロジェクトへと展開していく「種」となりうるのである。
しかし、名品は各章の見どころとしてそれぞれに取り込むことになり、また、版画作品も同様にテーマごとに分けられた。版画に関しては、展示数を大幅に減らさねばならなかったこと、今回の展覧会ではこれまでに世に出たことのない作品(となると、主に肉筆)の公開を優先させたこともあり、残念ながらこの案は叶わなかった。
展覧会をまとめるには、諦めなければならないこと、方法を変えねばならないことも沢山出てくる。しかし、採用されなかったアイディアは逆に言うならば「新たな可能性」なのであり、次のプロジェクトへと展開していく「種」となりうるのである。
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