Henri Rousseau et Yuichi Takahashi (アンリ・ルソーと高橋由一)
右:アンリ・ルソー(59歳)[1903] 、左:高橋由一(40歳頃)[1866-7]
ルソーと由一。いまだかつて誰がこの二人を並べて話をしようなどと思っただろうか。でたらめな私自身、こうやって二人の自画像を並べてみて驚いているのだが、わりと似ている。左斜め前から胸から上を描いているというスタイルだけではなく、広いおでこに角度をつけてキリリと引かれた眉、少し不自然なくらいの色による陰影表現も、こめかみから顎にかけての影のつけ方も似ている。そして何よりも、それぞれどちらも自意識過剰ともいえる緊張感にあふれた自画像ではないか。
たまたま二人の自画像を並べてみたことから話がこのような進み方をしてしまったが、二人を一緒に持ち出したとしても、別にその類似性を指摘し証明しようとしているのではない。先の話にデルヴォーを登場させたのと同じくらいの気持ちで、二人の絵から受けた印象に共通するものがあったので、書いてみたいと思っただけだ。なんの根拠もない感想文である。
高橋由一[1828-94]は、日本で油彩画がまだあまり普及していない頃、その習得・発展に半生をつぎ込んだ、日本近代絵画の幕開けともいえる時代の本当に最初の人だ。今の人の洋画に対する一般的な印象は、「油絵(あぶらえ)」という言葉のもつベトベトした感じ、どうも泥臭く暗い感じに代表されるのではないかと、私自身の印象からも思うのだが(そして半分以上は岸田劉生の、あの恐ろしい微笑を浮かべた麗子像のせいだと思っているが)、丁寧に見ていくとその印象もずいぶん変わる。私は最近、芳賀徹先生の『絵画の領分』という本を読んで、芳賀先生の高橋由一への思い入れに影響されたせいもあり、この時代の絵画も興味深く見られるようになってきた。
高橋由一にとって西洋画法を学ぶことは、同時にものの見方の改革でもあった(ということを芳賀先生の本は教えてくれる)。例えば桜を描くとして、器用にさささっと「桜一般」を描いてみせるのでもなく、また桜の花をつけた枝が風にそよぐ様に自らの心情を反映させて、その印象を描くのでもなく、自分の目の前にある特定の桜を、自分からまったく切り離して一個の客体として写すということ、すなわち「写実」に高橋由一は挑戦し始めるのである。彼の絵の張り詰めた緊張感は、由一の対象に向かう必死なまでの姿を映しているかのようで、ここでは開拓者の切実さが、迫力となって実を結んでいる。この切実さ、あるいは必死さ、甘えのなさ、つまりこの画家の全存在をかけているような絵のあり方は、油絵の道を自ら切り開いていった由一のような人の他に、そう簡単に見られるものではないのではなかろうか。
右上の“墨水桜花輝耀の景”では、まるで水を含んでいるかのように濡れて光る花びら一枚一枚の、向こうが透けるような薄さ、由一によって写し取られた桜の姿に、注がれる由一の集中力に、人の営みとしての絵画世界の深さを見たようで、心が熱くなる思いがした。その「写実」の精神は、岸田劉生の“切通しの写生”に貴重に受け継がれている。 (下図)
さて、私の中で由一とルソーが重なったのは、この“墨水桜花輝耀の景”の桜の花びらが油彩画の表面に塗る釉のせいで、まるで水分を含んだようにキラキラした瞬間である。それはルソーの“森の中の逢引”の白みがかった空がキラキラと、これもまた釉と照明のせいで光をもち、効果的に私の心をつかんだときと同じだった。(私はカラスか。)しかし、それはただ単に光り物効果というだけではなく、なぜルソーの絵が感動的か、なぜ高橋由一の絵が感動的か、という点で本質的に重なりあうところがあったからだ、と私は言いたい。
「写実的」である絵と「写実」は違う。由一の写実への挑戦は、自らにウソをつくことを許さぬ厳しさが感じられる。彼の「写実」は、時に「写実的」になりえないことさえある。技術の未熟さが、そしてごまかしがないために、ぎこちなさとなって出てしまうからだ。それでも由一の絵の迫力は、写実に対する執着から来るものである。その力は、写実とはかけ離れていると思われるルソーの絵がもつ力、またはルソーの絵がもたらす感動に、とても近いように感じる。ルソーが追求したものも、ある意味で「真」だったからではないだろうか。ルソーは彼の内に展開した世界の姿を写すという意味で、そのひたむきさは由一のそれに匹敵するものだったと言うことができると思うのだ。
彼が自分が描くジャングルの世界に入り込んで、息苦しくなって部屋の窓を開けなければならなかったというエピソードが示すように、ジャングルの世界はルソーにとって真実だった。ルソーがその世界のディテールをキャンバスの上に描き写すとき、一筆一筆が彼のすべてのエネルギーを持って、その世界をなぞったのだ。丁寧に塗り重ねられ、分厚さを増した濃い緑の一枚の葉に、微妙で繊細なグラデーションをみせる空の色に、私はそのようなルソーの絵のあり方を思い、心打たれる。
例えばロンドンのナショナル・ギャラリーにある“Tiger in a Tropical Storm (Surprised!)” [1891]では、その他のルソーのジャングルの絵と同様、一枚の葉ですら、主人公であるはずの虎に注がれるのと同じ丁寧さ、エネルギーで描かれている。技術的未熟さ、表現の不自然さをあげつらうのは簡単なことだ。しかし、そのような技術をもつ人こそが陥りがちな、見る人の目を欺こう、騙そうという意図などここにはない。あるのは熱意と、ただひたすらに身を注ぎ込むルソーの姿だけである。
ゴッホの燃え立つように画面に盛られる絵の具が描き出す、花をつけた杏の木や糸杉のもつ生命力。そのような激しさとは異なるが、ルソーや由一の作品も見れば見るほどその一筆一筆から画面に注ぎ込まれる画家のエネルギーに圧倒され、また感動させられる。そしてその二人が当時の絵画の主流からははじかれていながらも、自身の画業に対する誇りと信念とともに自尊心をギラギラさせながら、びしっとした服装で同じように強い目をした自画像を描いたとしてもなんら不思議ではないのである。
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