Thursday, April 7

The Dancing Satyr & the Seated Bodhisattva (踊るサテュロスと菩薩半跏像)

3月11日、東京国立博物館でこの2つの古代彫刻を同時に見ることができた。サテュロスは今は愛知万博のイタリア・パビリオンにあるらしい。その前に東博に立ち寄ったのが、今も東博で特別展示されている中宮寺半跏菩薩の展示期間とかぶっていたのだ。“踊る”サテュロスと“半跏(足を組んで座った姿勢の)”菩薩。共に聖なるものとして、ただの彫刻以上の存在であっただろう二体だが、ポーズひとつをとっても、表現の仕方、表現されているものといい、対照的で面白い。 どちらもそれぞれ魅力的であり、並ならぬ存在感があった。

“踊るサテュロス”,ブロンズ像(高さ約2.5m、重さ108kg),BC4世紀ギリシャ,シチリア、マザラ・デル・ヴァッロ サテュロス博物館所有

雨の上野公園を通ってバタバタと東博の表慶館に駆け込むと、「門外不出」と言われてきたサテュロスを見ようと集まってきた人がすでにたくさん入っていた。サテュロスとは、ギリシャ神話の酒の神ディオニュソス(バッカス)の従者である山野の精のことだ。お酒の神さまの従者という役柄にふさわしく、音楽、踊りの名手で、大騒ぎやいたずらが好きで、そのうえ好色ときている。このブロンズ像では、そのようなお祭り騒ぎのような雰囲気はあまりない。言うならば、時間の流れを忘れさせるような静寂の中で、体に湧き上がるエネルギーの渦巻きに恍惚として身を任せている、といったふうだ。

The Dancing Satyr

この像は1998年にシチリアの漁船の網に引っかかって海から引き上げられたそうだ。テレビでその漁船に乗っていた人のインタビューを見たが、随分重いものがかかっているなと思って網を引き上げてみたら、海面からこの像が文字通り「顔」を出したそうである。息が止まるほどびっくりしたと言うが、本当にそうだっただろう。 物は時を経ると、最初に人間の手によって作られたときの状態に時間の“手”が加えられて、“時間の色”がつき、“すごみ”や“味”(これを「古色」という)が出るということがよくある。人工物であることを越えて、より大きな力が加わるのだ。錆びや傷もがそのものの力になり、人の手だけでは成し得なかった迫力を生み、時間の力がその物にこもる。このサテュロスの姿はそのいい例だ。この顔の迫力。漁師のおじさんの驚きには畏怖の念さえこもっていただろう。

日本の文化の中には、古色が出るようにあらかじめ考えられて作られたものもたくさんある。例えば漆器などは、手ずれができて下地の色が微妙に見えるようになって、「いい味が出ている」と言われるようになったりする。そうでなくても、昔の仏像などが色あせた状態でこそ賞賛されるということはよくある。有名な例で言えば、興福寺の阿修羅像[734年]は元々の姿を復元すると実にけばけばしくなる。大抵の人は今のしぶい色合いをより好む。 そこができるだけ元の状態に近づけようとする西洋的考え方や強い色合いを好む中国の好みとはちょっと違うところだ。(ちなみに、この阿修羅像の顔とサテュロスの顔が似ているという指摘もある。)

Ashura of Kofukuji & its reconstruction

“菩薩半跏像” [国宝],寄木彫刻(高さ87.9cm),7世紀(飛鳥時代),奈良・中宮寺
東京国立博物館本館にて3月8日から4月17日まで特別展示。普段は中宮寺にある。

こちらは、サテュロスが作られたおよそ900年後の日本で、聖徳太子の時代に作られた菩薩像である。 菩薩というのは悟りをひらいて仏陀になる前の姿で、仏と人間をつなぐ存在、より親しみやすい存在として仏教美術によく登場する。お寺の中で見てこそ、その雰囲気を最大限に感じることができるのだろうが、東京内で見られるということ、お寺では見られない像の背後にもまわることができたこと、サテュロスを見た印象を新鮮にもったまま見ることができたことがよかった。木彫のもつ有機的なあたたかさ、静かで落ち着いた雰囲気は、場所がどこであれ全く損なわれることはない。

Chugu-ji Seated Bosatsu (Bodhisattva)

菩薩の体の表現自体にはリアルさはない。体は“型”であって、心の中にイメージを広げるヒントのようなものである。しかし顔の表情には一種の具体性があり、それがこの像のもつ説得力の源になっているように思う。その表情に見られる品と静かな落ち着きは、型に力を与え、像に命を与える。この像が呼び起こすのは、見ているうちに体を満たす、静かで落ち着いた温かみのある空気のようなものだ。

それに対して古代ギリシャのサテュロスは、体そのものがなんと具体的だったことだろう。心の中に送り込まれる清らかな空気を体に満たしていくような気持ちで菩薩像を眺めるのとは違って、体の表面がうずくような実感と生命力にあふれたフィジカルな魅力がある。おしりのくぼみから背筋の肉厚なかんじといい、隅々まで具体的なディテールが、菩薩のもつ力とはまた違った説得力と魅力をもって迫ってくるようだった。

Back and details of Satyr

彫刻と向き合うとき、その彫刻と見る人が物質的に同じ空間を共有するため、絵画とは一味違った、よりパーソナルな対話を経験することがある。その存在をよりフィジカルなかたちで感じるので、分かりやすい形で説得力が増すこともあるだろう。菩薩像を見ている人たちが、自然と「お顔が…」「~でいらっしゃる」などと敬語を使っているのに気づくと、宗教心の問題どうこう以前に、彫刻というフォームの効果を感じずにはいられない。この二体の彫刻は、それぞれが見る人に呼び起こすものも表現の関心もまったく異なるが、どちらも見る人を惹きつける独特の力をもっており、印象深い対面となった。