Saturday, April 9

Paris, Texas (パリ、テキサス)

ヴィム・ヴェンダース監督,1984年,西ドイツ=フランス

Poster of "Paris, Texas"

朝日新聞の"be"という、いまいち何をしたいのかがよく伝わってこない折込紙がある。青いのとオレンジ色のがあるが、本日付のオレンジのほうに、先日『ブエナビスタ・ソシアルクラブ』について触れたときにも名前が挙がったヴェンダースの、名作『パリ、テキサス』の話が出てきた。私もこの映画は大好きである。「おぉ」と思って記事に目を通した。が、読んでいて腹が立った。ペラい折込が中身までペラい。「ひとつ分からなかったのが…」と言って、(見た当時)映画の最も重要なメッセージを受け取り損ねていることを自ら暴露していることに加え、腹が立つのは何と言っても、多くの読者を抱える有力新聞社・朝日とあろうものが、無責任にもこの映画のもっている複雑さを台無しにするからだ。

この映画は、トラヴィスという男がテキサスの砂漠で見つかるところから始まる。このシーンは印象的だ。真っ青な空と砂漠の黄色い大地の広がりの中を、熱く乾いた空気を伝って、ライ・クーダの弾くスライドギターの音が数本、重なり合いながらカーブをえがくように走ってくる。そこに赤いキャップをかぶった、いかにも怪しげな男がふらりと現れる。トラヴィスだ。愛を注ぎ込んだと思っていた妻が幼い息子を残して家を飛び出し、彼は混乱のままボロボロになって、4年間行方が知れないでいた。

その彼が、彼の息子を引き取って自分たちの実の子のように育ててきた弟夫婦のところにやってくることになる。初めまったく口を利かないトラヴィスだが、一枚の写真をきっかけに話し始める。それはテキサスの“パリ”に彼が買った土地の写真であり、そこは自分の両親が初めて結ばれた― つまり自分が命を宿したかもしれない― という場所なのだ、と。

Travis (left) and Jane (right): Scenes from "Paris, Texas"

傷だらけの思いを内にひた抱えながら、自分自身の姿を、また、自分の人生に存在する大切な人に自分はどういう責任があるのかということを見つめなおす。自分がかつて夢みた場所に、まだ自分は今でもたどり着くことはできるのか、どのように歩いていけるのかを、夢の崩壊という混乱や恐れを少しずつ自分の中で克服しながら、歩き出す。そのような、痛む傷に恐る恐る温かい手を触れていくような繊細さで描かれた、人間の生きること、愛することへの複雑な思いを、

あんな単純さに還元するとは許せん!!! オレンジbeめ。

まず第一に、あの映画をネタにテキサスの“パリ”(ダラスの少し北東)を取材すること自体が的外れである。映画にとって実際の場所としてのテキサスのパリは大きな問題ではないからだ。それは、トラヴィスの夢と思いがこもった象徴的な場所であり、そこにトラヴィスがどのように自分自身を向けていくか、という精神的な過程が大切なのである。この“パリ”は、遠き夢の場所フランス・パリに対するテキサスの思いに重なって、この映画の、そしてトラヴィスの精神的軸であり、「きっかけ」である。他の人にとっては他のものがトラヴィスにとっての“パリ、テキサス”になるのだから、実際のテキサスのパリで「トラヴィス」と「ジェイン(トラヴィスの元妻)」の姿を探すなんて、意味のあることではない。

ヴェンダースがテキサスのパリを訪ねる動機となったのは、映画の生みの親としての、トラヴィスというキャラクターに対する責任感であり、シンパシーであったに違いない。大事なところは全部ヴェンダース自身の説明に頼ってしまう記事の姿勢にもろに現れているように、 ヴェンダースが行ったからといってそのあとをフラフラついていくようなことでは、この記事のモチベーションはどこにあるのか、と言いたくなる。

The picture of the land Travis bought in Paris-Texas.

そして記事は「ネタばれ」の注意書きもないまま、悲しくも味わい深いラストをペラリとしゃべってしまう。書いた人は映画を見たときにそのラストの意味をつかめなかったらしいが、記事を書いた今の時点では分かるようになったと言いつつも、その結論にたどり着くまでトラヴィスがさまよってきた道のりの長さを、受け止めるべき思いの大きさを感じ取っているとは思えない。しかし、もう書かれてしまったのだからしょうがない。ここではせめて、そんな軽さでは説明できないと私が感じることを書いてみたい。

トラヴィスが2人と一緒になろうとせずに立ち去ったのは、自分が愛の名の下にまさにその愛をぶちこわしにしたことを思い知っているからだ。単純にもう一度家族3人一緒になれば幸せになれるというほど、ものごとは簡単ではない。トラヴィスの4年間の間には自分が見出すことのできたもの、できていないものがあり、またジェインには彼女がその4年間の間に積み重ねてきた生活と思いがあり、ハンター(息子)には弟夫婦の注いできた愛と幸せな時間がある。愛はいろんな関係の中で時間を経る中で、複雑に入り組んで人々の間を通って、または通えないでいる。相手を思ったときに、どういうかたちでその思う心を反映させることができるのか。そのことが、トラヴィスとジェインとの、そして彼とハンターとの間で、ジェインとハンターとの間で、弟夫婦とハンターとの間で繰り返しおこる内なる質問であり、様々な思いを抱えながら、それぞれが道を探し続ける。

トラヴィスにとっては、自分が気づいたことをジェインに伝え、ハンターとジェインを再会させることは、そのひとつの道だった。4年間の間に傷の深さを見た彼が、自分がその輪に加わる段階ではないと判断したのは、悲しくも、自らを知り相手を思うがゆえのことだったと、私は思う。この映画でヴェンダースは、そのような悲しさをも含めた「人を思う」という複雑な、人が生きている限り常にあるテーマを、繊細な優しさを込めてポジティヴに、彼独特の鮮やかな色彩のなかに描き出している。

Travis and Hunter in a scene of the film.
Looking at this scene while writing this, I cannot help thinking that this junction, under which Travis and Hunter are talking in a car, represents such complexity of human relationships and also of the way of life. One road meets the other, but another might only pass them over and never come accross...

『パリ、テキサス』は実際に旅をする、いわゆる“ロードムーヴィー”であるが、心もあるひとつの場所に向けて―「パリ、テキサス」という精神的目的地に向かって― 道を歩むon-the-road過程を描いた、ロードムーヴィーというジャンルの本質を見事に体現した作品だと、改めて感心する。