Amadeus (アマデウス)
ミロス・フォアマン監督(『カッコーの巣の上で』,『ヘアー』etc.)
1985年(ディレクターズ・カット:2002年),アメリカ
フランス・リヨン,Les Nuits de Fourviereにて。
この映画を見るのは3回目くらいだろうか。10時になり、やっと夜らしい濃い青色に空が染まり始めた頃、ローマ円形劇場のステージに設置された大きなスクリーンに、映画のタイトルが浮かび上がった。フルヴィエールの丘の上にある野外劇場は、夏の夕べの涼しい風に吹かれ、遠くにはリヨンの町の光が静かに光っている。
一転、スクリーンの中は蝋燭の灯だけが闇を照らす、18世紀のウィーンの夜だ。(実際の撮影は、監督の故郷であるチェコで行われた。)石畳に響く、馬のひずめと馬車の車輪が立てる音、そしてモーツァルトの交響曲。全編通して織り込まれるモーツァルトの音楽に、その音楽からは想像できないような、ぶっとんだモーツァルトのキャラクターに、狂気を秘めた老いたサリエリの表情に、ミステリーあふれるストーリー展開に、観客はどんどん引き込まれていき、3時間に及ぶディレクターズ・カット版も、その長さを感じさせない。映画が終わる頃には、町のライトアップの光もすっかり消えていた。
映画『アマデウス』は、ストーリーといい、サリエリという強烈なキャラクターを使って、彼の強い感情に照らしながらモーツァルトを描く手法といい、実によくできた映画だが、私は特に「批評」として素晴らしいと思う。いくつかの事実に基づいて描きながらも、あくまでもフィクション映画なので、その性質を表すのに“批評”という言葉を使うのは、適切ではないかもしれない。しかし、モーツァルトの音楽と観客をつなぐという、作品と受け取る側の間で批評家が成し得る役割を考えるとき、この映画はモーツァルト批評として、かつてないほどに成功していると思うのだ。
「神に愛される(Amadeus)」モーツァルトの非凡さを、同じ音楽家として痛いほど分かってしまうサリエリが、憎しみに至るほどに強い羨みと、それでも抑えがたく湧き上がる感動に強く揺さぶられながら、世界の“凡人”を代表して、モーツァルトを語る。クラシックに特に興味がない人でも、まずその人間の強烈な感情の渦に引っ張られ、音楽をよく知らなくても、サリエリの言葉に導かれて、彼の頭の中に流れる音楽を聴きながら、モーツァルトの作り出す音の世界に触れる。「…ここで天から降ってくるように入ってくるソプラノ…。」低音と高音の意外な、そして抜群の組み合わせに気づき、サリエリと共にオーボエの奏でる美しいメロディーの絶妙さに鳥肌をたて、実際にその効果を目の当たりにしながら、モーツァルトのすごさを実感する。サリエリの感動が自分の経験となり、モーツァルトの世界への扉が開く。
作品を知り、その作品への自分の向き合い方をはっきりさせたうえで、自分の感動を伝えながら、他人と作品をつなぐ道となる。批評のあり方とはこういうものだと感心しながら、3度目の拍手を送った。
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