Saturday, October 7

Uccello - La Bataille de San Romano (ウッチェロ - サン・ロマーノの戦い)

Collection du Musée de Louvre (ルーブル美術館コレクション)

幅広い階段を小走りに駆け上がり、人々の間をすり抜けながら、広大なルーブルの連なる展示室を通り抜けていく。矢印と共にあちこちに現れる、主役の貫禄たっぷりのジョコンダ婦人(モナ・リザ)の微笑を横目に見ながら、イタリア・ルネサンス絵画の部屋の入り口に辿り着くと、ジョットの聖母子像が気品に満ちた静かな迫力で迎えてくれる。ここでほっと息を整え、さらに歩みを進めると、すぐにその絵が見えてくる。ウッチェロのサン・ロマーノの戦い3部作のひとつ、『La Contre-Attaque de Micheletto da Cotignola (ミケレット・ダ・コティニョーラの援軍)』[1435-40?] だ。


縦1メートル81センチ、横3メートル16センチのこの作品は、3メートル離れて立って、ちょうど視野に全体像が収まるくらい。暗い背景に何本もまっすぐに伸びる槍のシャープなライン、そして中央に集まる人や馬のかたまりに感じられる、外に弾けていこうとするようなエネルギーの凝縮。ラインや構図が生み出す緊迫感と、押さえた暗い色と描かれた一群のボリュームがもたらす、どっしりとした存在感。前に立つと、その絵に満ちるエネルギーに圧倒される。

1432年、ライバル都市、フィレンツェとシエナの間に起こり、フィレンツェの勝利に終わったサン・ロマーノの戦いを描いたこの3部作は、フィレンツェのメディチ家に3枚そろって飾られていたが、今はパリのルーブル、ロンドンのナショナル・ギャラリー(『フィレンツェ軍を指揮するニッコロ・ダ・トレンティーノ』)[下図左]、フィレンツェのウフィッツィ(『ベルナルディーノ・デラ・チャドラの落馬』)[下図右]に所蔵されている。それぞれ別々になら見たことがあるが、 いつかウッチェロ大回顧展などといって、3作一堂に揃って展示されることがあれば、世界のどこにいたとしても見に行きたい。


15世紀のイタリア・ルネッサンス、視覚的リアリズムを追求するこの時代の初期に活躍したウッチェロは、当時最新のテクニックだった遠近法に取り付かれていた画家として知られている。サン・ロマーノの戦いシリーズの中でも、そこかしこに遠近短縮法を使っている。ロンドンの例を見てみよう。前傾で倒れている兵士(下、拡大図)、地面に散らばる槍や武具。ルーブルの絵においても、あらゆる角度から描かれる馬の体に、ウッチェロの遠近法熱が見て取れる。


立体感と奥行きの表現にこだわるあまり、静止した彫刻を写したような硬さがあるのは否めない。時代的にもう少し後に出てくる、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチのように、光と影の効果、または空気の表現によって硬い輪郭を和らげ、より自然に遠近感を出すことを、ウッチェロはまだ知らなかったと、ゴンブリッチ先生は指摘する。 (E. H. Gombrich, The Story of Art, Phaidon, 1995, p.256)

しかし、ウッチェロのすごさはその技法的ぎこちなさを超え、それすらも魅力のひとつに感じさせてしまうところにある。ウッチェロの幾何学的構成に対する関心は、緊張感のある画面構成を作り出している。暗い色調で描かれた馬の重なり、兵士たちの集合のかたまりの重さに対して、まっすぐでシャープに伸びる槍のラインの明るさ、軽やかさ。このラインの生むリズムや配色、特に朱色に近い、この時代独特の赤を効果的に使うことによって、画面に動きが出てくる。確かに、ひとつひとつのモチーフは木彫りの彫刻のようであっても、全体の構図や効果的な色使いによって生まれるリズムが、画面にダイナミックな動きとエネルギーを生み出しているのである。

また、画面上部の槍の線、そして画面下部の馬や兵士の足の線が、中心のかたまりから外側に向かって放射線状に、リズミカルに広がっている。この線が、今にも外に向かって飛び出していきそうなこの集団の士気溢れるエネルギーを感じさせると同時に、逆に見る者の目を自然に線の集まる中心、主役となる人物へと導く働きもしている。この大画面に、これだけの情報を詰め込みながら、存在感と緊張感を持ってダイナミックに主題(この戦いの英雄)をみせる、見事なコンポジション(画面構成)は、さすがウッチェロだ。新しい芸術の時代の幕開けの高揚感、挑戦心、そして喜びに満ちたウッチェロ芸術は、今の時代の目にも刺激的で新鮮さを失わない。



そのウッチェロの彫刻的な雰囲気がますます魅力的な小作品が、ロンドンとパリにある。『竜と戦う聖ゲオルギウス(Saint George and the Dragon / Saint Georges terrassant le Dragon)』という同じテーマで描かれた2点で、ひとつは前述のロンドン・ナショナル・ギャラリー[上図左]、もう1点はパリのジャックマール・アンドレ美術館(Musée Jacquemart-André)[上図右]にある。

ナショナル・ギャラリーのほうが、斜め前の角度から竜と騎士を描いていて少し複雑化しているが、ジャックマール・アンドレのほうは、みんな横向きで構図も単純、竜も着ぐるみのような愛らしさがある。青、白、赤、緑のシンプルでクリアな色使いで、おもちゃ箱から人形を取り出して並べたみたいなコンパクトなまとまり、かわいらしさだ。ジャックマール・アンドレの屋敷の小さな一室に、木製の家具などと共に飾られているのがとても合っている。このポップさとシックな落ち着きの、なんともいえないバランスもまた、ウッチェロの魅力のひとつだ。

Friday, October 6

Uccello et Cartier-Bresson (ウッチェロとカルティエ=ブレッソン)



ルーブルにあるウッチェロの『サン・ロマーノの戦い』を前にして、Henri Cartier-Bressonは感嘆とともに、このようにもらした。

"Il y a les mathèmatiques et tout ça. Il y a le silence. Qu'est-ce qu'on fait après ça?"
「(この絵には)数学とかそういったものがある。そして静けさがある。この後に(これ以上)何ができるだろう?」

映画“Biographie d'un regard”(邦題:『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』)の中の一場面である。(注:Fondation HCBにてDVD上映で見たため字幕が無く、聞き取ったフランス語が正確かどうかは分からない。)カルティエ=ブレッソンがウッチェロを好きなのはよく分かる。彼の写真も、構図的面白さが魅力のひとつだからだ。

サラ・ムーンの映画『疑問符』の中でも、“コンポジション(構図)の喜び”("la joie de la composition")と言って、幾何学的構成にへの興味を語っていた。カルティエ=ブレッソンの写真には、ラインの面白さが特徴的な写真がいくつもある。建物の形、雪の上に残る車の跡や線路、光と影の作り出す模様などが、白黒写真の中で効果的に現れてくる。その構図が生み出すダイナミズムは、ウッチェロの作品に通じるものがある。


こう考えてみると、カルティエ=ブレッソンの魅力もウッチェロの魅力も、まさに二次元(平面)としての表現のあり方に由来するものだということに気付く。三次元(立体)表現を追求したウッチェロには皮肉な結果とも言えるかもしれないが、実際、絵画の「平面」というありかたを生かした、表面的なリアリズムにとどまらない、新しい力強い表現を求めた近代以降の目にもウッチェロが面白く映るのは、まさにその平面的効果によるものであろう。

しかしカルティエ=ブレッソンにおいても言えることだが、その作品の力は二次元的世界にとどまるものではない。平面としての構成の面白さ、そしてその奥に広がる世界に見るものを引き込む力。ウッチェロ、カルティエ=ブレッソンの作品は、まず造形的、視覚的面白さによって、そしてそこに広がる世界の奥行きによって、重層的に訴えかけてくる。この作品世界の多層な広がり方こそが、カルティエ=ブレッソン、ウッチェロの力である。

ちなみに、カルティエ=ブレッソンは音楽では断然バッハが好きだという(映画『疑問符』より)。彼の写真に感じる、見事にコントロールされた軽やかなリズム感は、確かにバッハ的であると言えるかもしれない。

Tuesday, October 3

Henri Cartier-Bresson (アンリ・カルティエ=ブレッソン)

Le silence intérieur d'une victime consentante
(“同意した被害者の内なる静寂”)
Fondation Henri Cartier-Bresson, Paris
2006年1月18日-4月9日
Henri Carier-Bresson drawing himself

Fondation HCB(アンリ・カルティエ=ブレッソン財団)の初めてのコレクション展は、カルティエ=ブレッソンのポートレート展だった。タイトルとなった“Le silence intérieur d'une victime consentante”は、カルティエ=ブレッソンの次の言葉から取られている。

"Si en faisant un portrait on espère saisir le silence intérieur d’une victime consentante, il est très difficile de lui introduire entre la chemise et la peau un appareil photographique."
「ポートレートを撮るとしたら、(撮られることに)同意した被害者の内なる静寂を捉えたい。その人のシャツと肌の間にカメラを入り込ませるのは非常にむずかしい。」

また、カルティエ=ブレッソンはこのようにも言う。

"Je cherche surtout un silence intérieur. Je cherche à traduire la personnalité et non une expression."
「私はとりわけ内面の静寂を見出そうとしている。私が映し出そうとしているのは、その人自身であり、表情ではない。」

Jean-Paul Sartre [left] & Marilyn Monroe [right]

カルティエ=ブレッソンは一枚の写真の中に、その人の物語を撮る。例えば、その人を真ん中に撮るのではなく、中心をちょっと横にずらすことで、その人のいる空間を撮る。生きている場所、空気を含めて、その人間を撮るのだ。このようにカルティエ=ブレッソンは、その人の存在を臨場感あふれる、よりリアルなかたちで切り取る。額を超え、その場所とつながって迫ってくる被写体の存在感と、一枚の写真としての見事なまとまり。この絶妙なフレーミングがカルティエ=ブレッソンだ。

Henri Matisse [left] & Truman Capote [right]

絵のように隙無く計算された構図、光と影。ある人が放つオーラ、その場の空気の中に溶け込んでいる人、これを見事に撮り分けるカルティエ=ブレッソンは写真画家だ。カメラがカルティエ=ブレッソンの目に、脳に、直接つながっているんじゃないかと思うくらいのクリアさ、迷いの無さには感嘆する。カルティエ=ブレッソンが働いていた雑誌Magnum(マグナム)は、トリミングなど、写真に手を加えることをしない主義だったため、カルティエ=ブレッソンの多くの作品もその方針によっている。そのことを考えるとますます、この写真の完成度にゾクゾクする。

カメラマンSarah Moon(サラ・ムーン)がカルティエ=ブレッソンにインタビューして撮った、“Henri Cartier-Bresson Point d'interrogation(アンリ・カルティエ=ブレッソン - 疑問符)” [1994] の中に、カルティエ=ブレッソンが路上で写真を撮っているときの映像があった。映像の編集の仕方もあるが、その足取りたるやまさにダンスのようで、長身のカルティエ=ブレッソンが人ごみをぬって軽やかに、そして敏捷に動きまわる様は、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という、モハメッド・アリの言葉を思い起こさせる。画家になりたかったというカルティエ=ブレッソン、彼の写真に絵を描く人の視点が大きく影響していることは確かだが、その動き、その視点、その完成度に、カメラマンになるために生まれてきたような人だと思わずにはいられない。

Henri Cartier-Bresson

私が初めてカルティエ=ブレッソンを意識したのは、彼が亡くなった時だった。その同じ月、2004年9月、京都に一人旅をしていたとき、ちょうど何必館・京都現代美術館でやっていたカルティエ=ブレッソン展に入ってみた。はっきりとした美的センスをもって、対象の魅力・迫力を効果的に切り取り、被写体にも自分にも感情的に寄りかからないカルティエ=ブレッソンの写真のあり方に惹かれた。

「撮影とは認識である」というカルティエ=ブレッソンの言葉は、私の中に強い印象を残した。自分でそんなふうに考えたことがなかったわけではないが、カルティエ=ブレッソンはその考えをしっかり自分の言葉で、そして何より自分の写真でつかんでいた。彼の写真に囲まれて触れたその言葉は、説得力と実感をもって私の中で響いたといえる。

カルティエ=ブレッソンの写真を見ていると、彼の写真集のタイトル『決定的瞬間(The Decisive Moment)』という訳は、インパクトあって魅力的だが、やはり重要な要素が抜けてしまっているように感じる。原題の“Images à la souvette”「今まさに過ぎていこうとしているその瞬間の画(イメージ)」には、その時の前後の連続性が感じられ、被写体や情景はより大きなコンテクストの中で意識される。“The Decisive Moment”のもつ、絶対的な響き、必然性の強調とは少しニュアンスが違う。この訳には、偶然性と必然性の絶妙なバランスが欠けてしまっているように思えて、微妙に違和感が残るのだ。


右上の写真のパリの街角で撮られた男の子のように、多くのカルティエ=ブレッソンの写真の被写体は、そこでは主役となりながらも、選ばれた特別な存在ではない。フレームで切り取られることによって、気付かれた存在だ。見るものは普段何気なく通り過ぎてしまう瞬間一つ一つにドラマが、人生の物語が存在していることに気付く。イメージは、その瞬間の前へ、先へ、一気に広がっていく。カルティエ=ブレッソンの切り取った瞬間は、英訳タイトルの見せる、停止した一時点を指すだけではなく、もっと大きな広がりをその内に含んでいるのである。

Monday, October 2

Pierre Bonnard, L'oeuvre d'art, un arrêt du temps (ピエール・ボナール 静止した時間)

Musée d'Art moderne de la Ville de Paris (パリ市立近代美術館)
2006年2月2日-5月7日

"Une oeuvre d'art est un arrêt du temps." - Pierre Bonnard
(“アート作品は、時の静止である”- ピエール・ボナール)

2年間改修工事中だったPalais de Tokyo(パレ・ド・トーキョー)の市立現代美術館が再オープンした。その再スタートを飾ったのが、このボナール展。フランス国内コレクションの他に、海外からも作品を集めてきており、作品90点、資料などもあわせると130点に及ぶ、力の入った展覧会だった。このボナール展に限った話ではないが、大きな美術館で特別展が行われると、それに合わせて一斉に出版界も動いている様子が明らかで、本屋の店頭には様々な出版社から出たボナール関連本、美術雑誌がずらりと並ぶ。美術展のカタログや、以前出版されたものを並べてみるという程度ではなく、新刊がこうやって店頭を賑わしている様は、今この展覧会と共に町が動いているという印象があって、美術が生きているパリを実感させる。

地味で目立たない印象だったボナール[1867-1947] だが、本国フランスでは事情が少し違うようで、美術館リニューアルオープン特別展第一弾に華々しく取り上げられるように、“20世紀を代表する画家”として堂々たるものだ。私自身、ボナールの作品にはあまり親しみがなく、ジャポニズムの勉強をしていたときに日本の屏風風の縦長の、抑えた色使いの絵をいくつか見ていたのと、味のある線が特徴的な版画作品をいくつか知っている程度だった[下図左]。また、オルセー美術館に私がひどく気に入っている白猫の絵があり[下図右]、「ボナールはそれさえあれば満足」という、勝手極まりない認識に落ち着いていた。しかし、今回の展覧会ではもっと豊かなボナールの世界をのぞき見ることができた。


まず、ボナールがこんなに光を描く画家だとは知らなかった。画面いっぱいに、まぶしいばかりの外光が溢れる絵、窓からさしこむ部屋の中の太陽の光、身体の上に反射するひとかたまりの光。遠くから見ると、はっと目を惹くような、光が魅力的な絵がいくつもある。白い絵の具をたくさん使って、または燃えるようなオレンジや赤、まばゆい黄色を画面に散らばらせ、ボナールは絵を光で輝かせていた。


それにしても、ボナールというのは不思議な画家だ。上手いのか下手なのか、よく分からなくなることがある。それが意図的なのか意図的ではないのか、それさえもいまいち分からない。彼の絵を見ていて、どうしても気になる不自然さを感じることがある。曲げた腕が変に短かったり、妙にバランスがくずれていたり、私が絵を描いていて、うまく描けないときのもどかしさを、そのまま感じてしまうような絵の不自然さなのだ。例えば、あの愉快なルソーの絵の中では気にならないようなことでも、ボナールだと全体のバランスを見たときに気になってしまう。ルソーの絵は全体がその奇妙な不自然さで、ひとつの世界が出来上がっているのに対し、ボナールは一部だけバランスがくずれているような印象を与えてしまうのだ。

彼がデッサンができないわけはない。それは彼が挿絵をした、Jules Renard (ジュール・ルナール)の『Histoires Naturelles(博物誌)』のような本を見てもよく分かる。自由な筆遣いで描かれた線画の動物たちは、生き生きとして味わい深い。そこには、動物への興味・愛着と、確かな観察眼が感じられ、ボナールの画家としての魅力を存分に感じられる作品だ。


彼のタブローの中にも、時々このような、とても魅力的な生き物たちが登場する。生き生きとして、表情があって、見たとたん愛着がわくような登場人物たち。それは子ども、そして猫である。踊る子どもは動きに溢れ、座っている猫は満足げに目を細めている。こういう部分は本当に魅力的なのに、画面全体になると何となく緊張感を失って、「どうもなぁ…」というのがよくある。この部分だけトリミングして、1枚の絵にしたいくらいだと思ってしまう。下の絵も、猫の凛としたエレガントさに比べて、この女の人の重たさはなんだろう。まるで興味がないかのような描きようである。


展覧会には、ボナールの若い頃から年取っていくまでの自画像が並べてあった。その変化の仕方たるやドラマチックで、老いかたの著しいこと。抽象化が進んで、というか、大幅にディテールを省くようになって、抜け殻みたいになっていく様は、ある種の爽快さすら感じさせる。彼の絵の不思議な呼吸の仕方は、この力の抜け方に秘密があるような気がする。上に触れた奇妙な不自然さにしても、このようにどこか少し崩すことによって、絵に閉じ込められた瞬間が生々しく息をしているのを感じられるのかもしれない。

Le Chat Blanc par Bonnard (ボナールの白猫)


Le Chat Blanc (White Cat) [1894]

気持ちよく、伸びたいだけ伸びている、この満足気な猫。自分の在り方がこんなにも自然で気持ちよく感じられてしまう、こんな幸せそうな瞬間ったらない。きっと散歩にちょっと出てきたところで、今日も自分が行こうと思っている陽だまりのことなんか考えながら、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んでみたら、やわらかい毛によそ風がじゃれて、身体の中も外も空気と一体になったみたいで、あぁなんて気持ちがいいんだろう。思わず目を閉じて、のどを鳴らしてしまった。そんな猫。やわらかく伸びて膨らんで、猫の嬉しさがよく表れているこの絵が、私は好きだ。

このボナールの白猫の夢を見たことがある。私が緩やかな坂道を上がっていくと、道の先にゆっくりと垣根が見えてきた。その下に猫がいて、ちょうどふにゃーっと伸びをした。その様子が、このボナールの猫そっくりで、「あぁ、ボナールって写実だったんだ」と、深くうなずいた。そういう夢だった。

「ボナールは写実派です」と大真面目に言ったって、聞いてもらえるわけはない。しかし、こんな夢を見るほど、この絵は猫がもっとも猫な瞬間を、リアルに気持ちよく感じさせてくれるのである。