Monday, October 2

Pierre Bonnard, L'oeuvre d'art, un arrêt du temps (ピエール・ボナール 静止した時間)

Musée d'Art moderne de la Ville de Paris (パリ市立近代美術館)
2006年2月2日-5月7日

"Une oeuvre d'art est un arrêt du temps." - Pierre Bonnard
(“アート作品は、時の静止である”- ピエール・ボナール)

2年間改修工事中だったPalais de Tokyo(パレ・ド・トーキョー)の市立現代美術館が再オープンした。その再スタートを飾ったのが、このボナール展。フランス国内コレクションの他に、海外からも作品を集めてきており、作品90点、資料などもあわせると130点に及ぶ、力の入った展覧会だった。このボナール展に限った話ではないが、大きな美術館で特別展が行われると、それに合わせて一斉に出版界も動いている様子が明らかで、本屋の店頭には様々な出版社から出たボナール関連本、美術雑誌がずらりと並ぶ。美術展のカタログや、以前出版されたものを並べてみるという程度ではなく、新刊がこうやって店頭を賑わしている様は、今この展覧会と共に町が動いているという印象があって、美術が生きているパリを実感させる。

地味で目立たない印象だったボナール[1867-1947] だが、本国フランスでは事情が少し違うようで、美術館リニューアルオープン特別展第一弾に華々しく取り上げられるように、“20世紀を代表する画家”として堂々たるものだ。私自身、ボナールの作品にはあまり親しみがなく、ジャポニズムの勉強をしていたときに日本の屏風風の縦長の、抑えた色使いの絵をいくつか見ていたのと、味のある線が特徴的な版画作品をいくつか知っている程度だった[下図左]。また、オルセー美術館に私がひどく気に入っている白猫の絵があり[下図右]、「ボナールはそれさえあれば満足」という、勝手極まりない認識に落ち着いていた。しかし、今回の展覧会ではもっと豊かなボナールの世界をのぞき見ることができた。


まず、ボナールがこんなに光を描く画家だとは知らなかった。画面いっぱいに、まぶしいばかりの外光が溢れる絵、窓からさしこむ部屋の中の太陽の光、身体の上に反射するひとかたまりの光。遠くから見ると、はっと目を惹くような、光が魅力的な絵がいくつもある。白い絵の具をたくさん使って、または燃えるようなオレンジや赤、まばゆい黄色を画面に散らばらせ、ボナールは絵を光で輝かせていた。


それにしても、ボナールというのは不思議な画家だ。上手いのか下手なのか、よく分からなくなることがある。それが意図的なのか意図的ではないのか、それさえもいまいち分からない。彼の絵を見ていて、どうしても気になる不自然さを感じることがある。曲げた腕が変に短かったり、妙にバランスがくずれていたり、私が絵を描いていて、うまく描けないときのもどかしさを、そのまま感じてしまうような絵の不自然さなのだ。例えば、あの愉快なルソーの絵の中では気にならないようなことでも、ボナールだと全体のバランスを見たときに気になってしまう。ルソーの絵は全体がその奇妙な不自然さで、ひとつの世界が出来上がっているのに対し、ボナールは一部だけバランスがくずれているような印象を与えてしまうのだ。

彼がデッサンができないわけはない。それは彼が挿絵をした、Jules Renard (ジュール・ルナール)の『Histoires Naturelles(博物誌)』のような本を見てもよく分かる。自由な筆遣いで描かれた線画の動物たちは、生き生きとして味わい深い。そこには、動物への興味・愛着と、確かな観察眼が感じられ、ボナールの画家としての魅力を存分に感じられる作品だ。


彼のタブローの中にも、時々このような、とても魅力的な生き物たちが登場する。生き生きとして、表情があって、見たとたん愛着がわくような登場人物たち。それは子ども、そして猫である。踊る子どもは動きに溢れ、座っている猫は満足げに目を細めている。こういう部分は本当に魅力的なのに、画面全体になると何となく緊張感を失って、「どうもなぁ…」というのがよくある。この部分だけトリミングして、1枚の絵にしたいくらいだと思ってしまう。下の絵も、猫の凛としたエレガントさに比べて、この女の人の重たさはなんだろう。まるで興味がないかのような描きようである。


展覧会には、ボナールの若い頃から年取っていくまでの自画像が並べてあった。その変化の仕方たるやドラマチックで、老いかたの著しいこと。抽象化が進んで、というか、大幅にディテールを省くようになって、抜け殻みたいになっていく様は、ある種の爽快さすら感じさせる。彼の絵の不思議な呼吸の仕方は、この力の抜け方に秘密があるような気がする。上に触れた奇妙な不自然さにしても、このようにどこか少し崩すことによって、絵に閉じ込められた瞬間が生々しく息をしているのを感じられるのかもしれない。