Reading Korin
尾形光琳 / 紅白梅図 Red and White Plum Blossoms
祝・卒論提出。悩まされ続けて数ヶ月。必死になり始めて一ヶ月ちょっと。長い長い、卒論だった。テーマは尾形光琳。新五千円札には、光琳のかきつばたが印刷されているし、「琳派」と題して開けば大賑わいの展覧会、美術雑誌でもよく取り上げられ、江戸時代の「デザイナー」として現代でも脚光を浴びている。近年の科学調査で国宝『紅白梅図』の金地が金箔ではなかった、という調査結果が発表され(これはまだ色々な議論があるのだけれど)、また世の中を騒がせるなど話題性も高く、その知名度からいっても、日本美術史の立役者ともいうべき存在のアーティストだ。
光琳は「はみだし者」というか、江戸の画家たちの中でも非常に個性が強い人で、とにかく面白い人だったようだ。なんといっても東福門院(天皇の中宮)ご用達の呉服屋の次男。本物の贅沢を知っている、粋な京都人だ。遊郭に出入りして、散財して、家の遺産も食いつぶしてしまった。いろんなところに子どもは作ってくるし、慰謝料を請求されて裁判沙汰にもなっているし、江戸にしばらく住んでいたのも、贅沢取締法みたいなもので京都から一時追放になったから、という話すらある。本格的に創作活動を始めたのも、家の財産がもう底をついてお金をかせぐためだったというくらいだ。なにかと話題が多く、そしてセンスのいい人だったから、パトロンたちからは気に入られて目をかけられていたに違いないのだが、とにかくいつもお金には苦労していたらしい。
私の卒論担当教員でもあったWilson先生が以前、光琳はウォーホルみたいな人だったんじゃないかと言っていて、なるほどと思った。作品だけの評価に留まらず、彼自身とその行動が面白く、洗練されていて刺激的で、みんなの注目を集めるような人物。ウォーホルがまめな気遣いをするタイプの人だったことは前に少し触れたが、光琳がパトロンに宛てた丁寧な手紙や、いろいろ問題を起こしながらも相手の女の人に家を建てて住まわせる世話をしたり、自分の息子の行く末のために養子にやることにしたりというような、自分が何らかの責任を持つ人との関係を大事にする部分も、ちょっと重なって見える。
かきつばた図 Irises
というような話は、私の卒論には書いていない。私が光琳に興味を持っている理由のひとつ、ということだ。もうひとつはもちろん彼の作品。このシャープさ、切れ味のあるセンスのよさには、浮世絵師・歌川広重の版画を見るときと同じような、ぞくぞくする感覚を覚える。画面に満ちた緊張感と、目にまばゆい鮮やかさ。大胆だけれど、神経が行き届いていて、すきがない。ときたま画を描いたりする私としては、この迷いのなさと確実さには、くやしいくらいあこがれる。光琳はまさに、才能とセンスのアーティストだ。光琳が「法橋光琳」と筆でサインするあの字もいい。昔の人の字を見てよく思うような「達筆」というのではなく、個性のある丸字で、きれいにまとまっている。線の大事さを意識している人の字だ。こういうところにも、光琳のセンスはにじみ出る。そして、こういう小さな好感からまた少しずつ思い入れが深まっていくものだ。
Korin's signature
という思いも、私の卒論には書いていない。でも、気持ちはおのずと表れてしまうものだろうと思う。卒論のタイトルは、『Reading Korin - Transition of the image of Ogata Korin in the Edo, Modern West, and Meiji(江戸、近代西洋、明治における、尾形光琳のイメージの変遷)』 。Reading、というのはまさにそのままで、江戸、19-20世紀の欧米、明治時代に書かれた、光琳に関する記述や論評などを読んで、それぞれの時代、場所で、どのように人々が光琳を理解していたか、ということを検討したものだ。英語でタイトルを書いたのは、かっこつけたわけではなく、内容も英語で書かなければならなかったからだ。さすがは治外法権大学。
内容は、それらの記述をひたすらに読んで分析したもの。読んでいると、江戸、近代西洋、明治においての、だいたいの傾向が見えてくる。人々が光琳の何に注目し、どのように考えていたのか。そして、明治に至るまでに、光琳像が大きな変化を経験していることもよく分かる。それはどのように変わり、その結果、何が起こったのか。それは今の光琳の理解にどのような影響があるのか。こういうことを考えたのが、卒論の中身だ。 ここで卒論の和文要約に書いたことを繰り返すのも特に意味がないように思うので、このような卒論テーマがどんな意味があったのかということを考えてみたい。
いわゆる偉人や巨匠、彼らの残したものというのは、皆が「すごい、すごい」というから「すごいのか」と思うけれども、なかなか自分の実感として本当に「凄い」と感じることができる、もしくは「こうこうこうだから凄い」と、自分の言葉で説明できるということは、気づいてみるとなかなかない。つまり、大きく作り上げられたイメージばかりが頭を支配して、本当に自分の目でその凄さを味わうことがないままでいることがある、ということだ。その凄さが「すごいもの」として当たり前になってしまったとき、人はよく、じっくり見ることをやめてしまう。逆に、自分でちゃんと発見できたときには「これは当たり前じゃないよ、凄いんだよ!」と興奮できる。
言葉による説明というのは、実に危険だ。人は自分の目よりも、すでにある言葉や考えに頼る。言葉を聞くと分かったような気になるものだ。しかし、その言葉が本当に本質をつかんでいるのだろうか?決まりきった表現や語り口の後ろに隠されてしまているものはないだろうか?その言葉によって、「凄い!」という実感や面白しろさが妨げられていることはないだろうか?
卒論のテーマに沿って少し具体的に言えば、現在の尾形光琳の一般的な見方は、明治時代の「日本美術史」編纂の過程でできあがった国粋主義的解釈、西洋の光琳観に大きな影響を受けて作られた光琳像が基礎となっている。「日本美術の巨匠・天才」「日本文化の粋」といった、日本美術、文化の代表者のような光琳のイメージ、そして、その頃に定着した考え方、光琳を説明する言葉は、今でもよく見られるものである。最近よく問題にされている例をあげると、「琳派」という流派観は、明治時代に大和絵の伝統とのつながりで強調されていった一面がある。しかし、光琳本人はそのように他の画家たちとひとつのラインで結ばれることを考えたことがあっただろうか。また、よく使われる「装飾的」という言葉は、西洋でよく日本美術に対して使われた "decorative, decoratif" の翻訳語である。しかし、果たしてそれらが光琳をちゃんと説明しているのか。「凄い!」という実感につながっているのか。明治の光琳イメージ構築のプロセスには、様々な問題を指摘することができる。
決まりきった表現、語り口によって見えにくくなってしまった光琳の世界の広がりを、どんなふうに発見し、より自由な視点で楽しむことができるか。その模索の道のひとつが、江戸、近代西洋、明治という三つのステージにわたる、光琳イメージ創成期の人々の声を、丁寧に見直す作業だった。明治時代の、意図的に作り出された“伝統”の中に固定された光琳観に至るまで、人々はそれぞれの時代・場所で、それぞれの見方で光琳を理解していた。その中に見えてくるのは、コンヴェンショナルな枠に収まりきらない、光琳の芸術世界の広がりの豊かさ、解釈の可能性の豊富さである。柔軟な視点の可能性、因習化した説明や表現を超えて、どんなふうに、どんなことを、自分が光琳のアートから見出すことができるのか、という挑戦を自分の中に意識することができたことが、この論文の大きな収穫だった。また光琳のことに限らず、いかに「凄い!」を実感として発見し、それを借り物ではない自分の言葉で語ることができるかというのは、むずかしいことではあるけれども、常に意識していたいことである。
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